川上 貞奴
- 生年月日
- 1871年9月2日
- 没年月日
- 1946年12月7日(75歳没)
日本の女優第1号。本名 小山貞。
幼い頃に芸者置屋の養女となり、明治20年(1887年)、売れっ子芸者になって「奴」とよばれるようになりました。
その当時、慶応義塾の学生であった福沢桃介に、野犬の群れから助けられるという逸話も残されています。
明治27年(1894年)に「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚。
川上一座が興行のため渡ったアメリカ・サンフランシスコの公演で、女優「貞奴」として初めて舞台に立ちアメリカ各地で評判を得ました。
また、パリ万博で公演し、フランス政府から勲章を授かるなど、「マダム貞奴」として一躍有名になりました。
音二郎の死後、7回忌を経て女優を引退。
名古屋大曽根に、輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立。
名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をしました。
桃介が東京へ戻ると、貞奴も拠点は東京へ移すものの暫くは東京と名古屋を行き来する生活を送ります。
昭和8年(1933年)に岐阜県鵜沼に私財を投じて貞照寺を建立。
東京と鵜沼を行き来して生活を送りました。
昭和21年(1946年)、熱海の別荘で死去。死後は貞照寺に埋葬されました。
福沢 桃介
- 生年月日
- 1868年8月13日
- 没年月日
- 1938年2月15日(69歳没)
大正期に電力王と言われ、木曽川水系に多くの発電所を建設しました。
幼少から神童と呼ばれる秀才で、慶応義塾に進みます。
慶応義塾での優秀な成績から福沢家に知られることとなり、福沢諭吉の次女ふさの婿となる為、福沢家の養子となりました。
明治20年(1887年)にアメリカへ留学。
帰国後、北海道炭坑鉄道会社に入社するも、肺結核になり退社。
入院し、病気療養の生活に入りました。
日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、事業家への道を歩み始めました。
大正2年(1913年)、名古屋電燈株式会社の取締役に就任。
電力会社を合併し、大同電力株式会社を設立しました。
社長として名古屋を拠点に木曽川水系の電力開発に乗り出し、名古屋の二葉御殿では、川上貞奴の協力のもとに政財界の接客を行い、事業の推進を図りました。
日本初のダム式発電である大井発電所など木曽川に7ヶ所の発電所を建設しました。
大正15年(1926年)、事業が軌道に乗り出すと後進に道を譲り、自身は東京に戻り隠居の道を選びました。
昭和13年(1938年)に渋谷の自宅にて死去。長野県南木曽には桃介ゆかりの施設が残されています。
ゆかりの場所
-
二葉御殿跡地
- 基本情報
-
- 所在地
- 白壁三丁目
- 年代
- 大正9年
- 建築・設計
- あめりか屋
- 解説
川上貞奴は、夫音二郎の七回忌を済ませた後、名古屋大曽根の「川上絹布(株)」の女社長となり、大正9年(1920年)二葉居を新築します。貞奴はここで、15歳の頃から旧知の仲であった電力王福沢桃介とともに暮らしていました。2000坪を超える敷地に建てられた屋敷は「二葉御殿」と呼ばれ、赤い屋根、緑の芝生、水を湛えた噴水があり、園遊会に招かれた客の中にはあまりの豪華さに思わず声をあげる人もいたそうです。
-
川上絹布工場跡
- 解説
川上貞奴が大正7年(1918年)に、上飯田に作った絹布会社の跡です。
社内では15、6歳から20歳まで、40から50人の女工が働いていました。作業は45分続き、15分休むというスタイル。女工たちはみな、紺のセーラー服に靴を履き、女学生のような格好で働いていました。昼休みの運動にはテニスをし、工場の中にはプールまであったそうです。また、全員が寮で生活をし、夜にはお茶、お花、和裁などの習い事、休日には演芸会などのリクリエーションを開いていました。厳しい労働と安い給料で酷使されていた当時の女工の待遇から考えると、夢のような生活を送ることのできる、まったく新しい会社だったのです。
川上絹布工場で作られた絹製品は品質が高く、フランスなど海外へ輸出されていました。
文化のみち二葉館【旧川上貞奴邸】の和室においてある座布団は、川上絹布工場で作られたものです。
-
成田山貞照寺
- 基本情報
-
- 所在地
- 岐阜県各務原市鵜沼宝積寺町5-189
- 電話
- 0583-84-0202
- お問い合わせ
大本山成田山名古屋別院大聖寺 0568-61-2583(代)
- 開堂日
- 日曜日・祝日 縁日(毎月1日・28日)
- ホームページ
- 成田山貞照寺公式サイト(外部リンク)
- 解説
貞照寺は、貞奴が昭和8年(1933年)に建立した寺です。ここに貞奴は眠っています。
また貞奴縁起館があり、貞奴と桃介の貴重な資料や当時使っていた様々な遺品を見ることがでます。
貞奴の霊廟の前には観音像が、福沢桃介のつくった大井ダム(長野県)に向かって、ひっそりと立っています。
立派な仁王門と、様々な浮き彫りを楽しめ、現在でも「芸事成就」を願う芸能人などが参拝しています。
- アクセス
- JR鵜沼駅または名鉄新鵜沼駅よりタクシーで5から6分
- ふれあいバス東部線「貞照寺前」
-
福沢桃介記念館
- 基本情報
-
- 所在地
- 長野県木曽郡南木曽町読書
- 電話
- 0264-57-4166
- 開館日
3月中旬から11月末
午前9時30分から午後4時30分
- 休館日
毎週水曜日、冬期(12月1日から3月中旬)
- 入館料
山の歴史館とセットで大人300円。中学生150円。小学生以下無料。
- ホームページ
- 南木曽町観光協会公式ホームページ(外部リンク)
- 解説
電力王・福沢桃介が、大正8年(1919年)に電源開発の木曽における基地として、この建物を建てました。ここに桃介は頻繁に貞奴を伴ってやって来たようです。この建物は、昭和35年4月6日の火災で2階部分を焼失し、平屋のまま、昭和60年から桃介記念館として一般公開してきましたが、平成9年度において、当初の2階建の姿に復元しました。
大正時代の貴重な西洋風別荘建築としても知られています。2人の写真や遺品、資料も展示しています。
また近くには桃介の作ったダムの建設のために架けられた「桃介橋」があります。
近代化遺産として、国の重要文化財に指定されている美しい橋です。
- アクセス
- JR 南木曾駅 下車 徒歩5から6分
- 国道19号線 南木曾駅前から左折 三留野大橋渡って右側
-
萩野変電所
- 解説
福沢桃介ゆかりの由緒正しい変電所。文明開化が名古屋にも浸透してきた明治20年(1887年)、旧尾張藩士を中心に「名古屋電燈(株)」を設立。電燈事業が始まりました。その後、明治39年(1906年)には、渋沢栄一を相談役に「名古屋電力(株)」が設立され、名古屋電燈の強力な競争相手となります。 このような時期に、福沢桃介は名古屋電燈の最大株主となり、明治43年(1910年)には、会長に就任しました。そして翌1911年、八百津発電所とともに完成したのが、萩野変電所です。同年12月からは送電を開始。翌年の1月には、日本初の六万ボルトの高圧送電に成功するなど、この萩野変電所は、当時の最高技術が投入された変電所でした。 現在の北区内では、山田に大正4~5年(1915年から1916年)、西志賀には大正6年(1917年)頃から送電され、ランプから電灯へと移行する文明を支えました。その後、この潤沢な電力を求めて名古屋に立地する企業が増え、名古屋の工業化を支える原動力となったのです。
-
読書(よみかき)発電所
- 基本情報
-
- 所在地
- 長野県木曽郡南木曽町読書3668-1
- 解説
国指定重要文化財。大正12年12月完成。当時の最大出力は40,700w水路式発電所として建設されました。木曽郡内では最大の発電力を誇りました。鉄筋コンクリート造りでレンガ壁・陸屋根構造。半円形の窓や屋上に突き出した明かり窓など近代的なデザインが施されています。